中村神社の拝殿
拝殿のお話し
城下町金沢の文化遺産
当社の拝殿は、旧金沢城二の丸御殿に江戸中期頃に建立された舞楽殿(能舞台)である。
前田家の歴代藩主自らが能を舞った舞楽殿とあって豪華さも格別である。
桃山風建築様式の総ケヤキ造り、欄間には加賀藩木彫名匠である武田友月の作と伝わる一本彫りの龍が四方に金色の目を光られており、塗格天井には極彩色の絵があしらわれている。
金沢城の建造物は明治十四年の火災でほとんど焼失したが、なぜこの舞楽殿が焼失を免れたのか物語がある。
明治維新の越後戦争で戦死した加賀藩武士の御霊を祀る為に、城下町を一望できる卯辰山に招魂社を建造することになった。
その社殿として白羽の矢が立ったのが、明治維新で主を失った舞楽殿である。そしてさっそく卯辰山に移築され、明治三年に招魂社の社殿として生まれ変わった。
結果的にこの移築が幸いし、火災での焼失を免れたのである。
しかし、多くの参拝者で賑わう招魂社であったが、昭和十年に御霊を石引に建造された護国神社に遷されることになった。
その為、招魂社の社殿のみ卯辰山に置き去りになり、忘れ去られたかのように静かに卯辰山の樹木に包まれ放置されていた。
そして三十年余りの時が流れた昭和三十九年に、中村神社の拝殿を新築するという話が進んでいた。そこで再度白羽の矢が立ったのが卯辰山に放置してある舞楽殿であった。
金沢の文化財産としての歴史ある舞楽殿を卯辰山に放置しておくのは偲びないと、舞楽殿を移築し大切に維持管理していくことを当時の所有者である護国神社に念願した。
そしてその思いが通じ、同四十年に舞楽殿を中村神社に移築し、修復作業を行い、装いも新たに三十年ぶりに陽の光をあてることになった。
舞楽殿は、金沢城内の現存する数少ない建造物として、平成十六年に文化庁の登録有形文化財にも指定され、数百年の時を経ても今尚活躍している城下町金沢の大切な歴史的建造物である